Ossan's Oblige ~オッサンズ・オブリージュ~

文化とは次世代に向けた記録であり、愛の集積物である。

【類似性の歴史的背景】「東南アジアのインド化」【カンボジア・インド同祖論2/3②】 

東南アジアの王朝成立を促したインド文化とは?

東南アジア最初期の王朝の出現は、インド商人の東南アジア来航が始まった時期と重なっています。

1世紀に開始されたローマのインド洋貿易は東南アジアへも影響を及ぼします。

東南アジアを訪れるインド商人は、しばしばバラモン階級を伴ったので、現地にヒンドゥー文化が波及します。

この布教と同時に、現地に扶南(1C : インドシナ半島東部)、Gangga Nagara(2C : マレー半島)、Salakanagara(2C : ジャワ島)といった王朝が姿を現すことになります。


それでは、古代インド人がもたらした思想・文化は、従来の土着文化に対し、どのような点で画期的だったのでしょうか?

東南アジアへ到達したバラモン階級がヒンドゥー教思想をもたらした

歴史家の説明によると、ヒンドゥー教の強い王権思想が王朝成立を可能にしたことになっています。

古代インドには、インド統一を成し遂げたマウリヤ朝の王に捧げられた、理想の王を象徴する概念が存在しました。
この”Chakravarti”がモデルとなり、東南アジアの地で”Devaraja”という派生概念が誕生します。

これは、世俗の王を宇宙の創造神ヴィシュヌ神とシヴァ神に結びつけ、創造神の体現者、あるいは再臨と見なす思想です。
王は神に等しい崇拝の対象とされ、政治と宗教の双方の権力を掌握することが認められました。

近世に入る前のヨーロッパにも、強い王の存在を認める「絶対王政」という思想が登場しますが、あくまで世俗の最高地位と神の代理人を兼ねる存在という程度の位置付けでした。
キリスト教の観点は、「人間の神性」を認めないのです。

一方”Devaraja”は、王=神という、王の神性・超越性を認める点で「絶対王政」の王権思想をさらに強化した概念といえます。

(おそらくは、インドへ到達したバラモン階級が、現地勢力の庇護を得るために、インドの王権思想を意図的に強化して普及させたことが始まりです。その後、5世紀頃のジャワ島でDevaraja概念のプロトタイプが作られ、9世紀のクメール帝国で最初に大規模に実践されました。)
つまり、インドからやってきたバラモン階級は、「王は神に等しい」という宗教観念を東南アジアに植えつけたことになります。


最初に東南アジアへ伝わった仏教には、こうした「強い王権思想」は存在しません。

2回目の波で到来した思想において、王は神であり、その命令は絶対的な強制力を持ちました。

王権思想が格差を作り、政治命令を可能にした

こうした王権の絶対視は、カースト制度的な階層区分と重なり、原住民の間に王を頂点とする序列を形成していきます。

しかしながら、本土インドのような征服の形式を取らなかったため、階級が特定の民族と結びつくことはなく、後世の歴史家に「東南アジアにカースト制度は普及しなかった」と語られるほど、能力に基づく社会的区分が標準だったようです。(主にサンスクリッド語の読み書き)

今日でも、タイ王国やカンボジアでは、身分格差がはっきり分かれがちですが、移動不可能な「階級」ではなく社会的身分の格差である点で、インドのカースト制度とは区別されています。

しかしながら、クメール人の真臘では、奴隷の14区分が存在したとされ、借金を返せなかった者、親に売られた者が世襲の奴隷として王命に服していた事例も確認できます。

こうした人間の階層区分は、格差の萌芽ではあったものの、同時に王朝拡大の原動力として働きました。
「王の絶対権力」という観念は、王命という政治権力へ転化し、公共事業(インフラ整備、戦争、建築など)を秩序立って実行する根拠となったからです。

“Devaraja”の採用によって王命はより強制力を増し、「王命が遂行されるたびに国内開発が進み、さらに王権が強化される」という建設的なサイクルが生まれ、クメール帝国の繁栄に寄与したのです。

交易の結果入ってきた技術も重要な条件

一方、王朝の拡大に関しては、交易と一緒に入ってきた技術の影響と不可分であると考えられます。
近代兵器も存在しないこの時代、王朝の盛衰を左右したのは、穀物生産力です。
のちのクメール王朝の覇権を可能にしたのは、肥沃な大地に築かれた精巧な灌漑設備でした。
これが土地特有の乾季を克服し、年3倍の収穫によって、人口増大と穀物の輸出品化という覇権条件を整えたのです。

当時、貿易を通してローマとつながっていた東南アジアへは、相当な先進技術の流入があったと考えられます。
そもそも、文字すら持たない未文明の土地で自発的に灌漑設備を完成させることは不可能です。
こうした技術的条件は、季節風貿易によって諸外国から流入した、ヒンドゥー教思想とは別の条件であったと考えられます。

事実、東南アジア初の覇権王朝・扶南のヒンドゥー教化は4世紀ですが、2〜3世紀には、インドシナ半島南部一帯に及ぶ領土拡大を完了させています。

またDivine kingの概念も、5世紀のジャワでプロトタイプが作られた後、統治理論として本格的に導入されるには9世紀のクメール帝国まで待たなくてはなりません。

ヒンドゥー教起源の「強い王思想」が入る前から、地域覇権を成し遂げる王朝は存在していたのです。

したがって、最初期の王朝拡大において、より重要だったのは貿易の富および一緒に伝わった先進技術であったと考えられます。

先進技術に基づく都市条件の整備があったからこそ生産力の向上が可能となり、高度技術を持たない近隣地域に対し優位を確立できたのです。

ヒンドゥー教は手に入れた広大な支配地をまとめ、統治する上で役に立った思想というのが事実ではないでしょうか。


宗教建築は、東南アジアにおける統治のシンボル

東南アジア各国の「強力な王権」を最も象徴するのが壮大な建築物です。

宗教の後ろ盾により、神に等しい権力を掌握した東南アジアの王は、配下の住民へ公共事業を命じました。(近隣諸国への拡大、インフラの整備、寺院の建築など)

中でも重要だったのが寺院の建築です。

なぜなら、王権の根拠は宗教的権威であり、自身の神性を示せなくなった瞬間に統治の正当性を失うことになるからです。
そのため、王は、常に自身の神性を証明しなければならず、宗教寺院の建設に心血を注ぎました。

今日、東南アジアの観光名所が寺院ばかりなのは、その時代の名残です。
東南アジアの王にとって、自身の神格化は、統治を行う上での最重要条件だったのです。

特に有名なのが、カンボジア・シェムリアップのアンコールワット(ヒンドゥー教のち仏教)、バイヨン(仏教)、インドネシア・ジャワのボロブドゥール(仏教)、スマトラのパレンバン(仏教)などです。

こうした建築物群に共通する壮大さ、壮麗さは、ヒンドゥー教のDivine King(Devaraja)に由来しています。
神聖なる王(シヴァ+ヴィシュヌ=ハリハラ)の全宇宙の統治の象徴として、王朝の領土拡大の成功後などに建造されたものばかりです。

仏教寺院が目立つのは、東南アジアは本土インドのような民族区分という条件を持たず、対立するはずのヒンドゥー教と仏教が当初から相互に習合しあったためだと考えられます。(各宗教のいいとこどり)

特にシェムリアップのアンコール・ワットは、古代ヒンドゥー王国の栄華を象徴する寺院(都)として王の威厳(神性)を国内外に示しました。
建築は、マンダラの理念に基づいた設計がなされ、構成要素間の距離もヒンドゥー教の神話や宇宙論に基づいて配置されます。
技術的な到達点も高く、概念モデルとのズレ0.01%未満という精巧さが、クメール人の技術的素養の高さを証明しています。
寺院の広さは西洋の聖堂の10倍以上であり、この壮大な建築物をわずか30年の歳月で築き上げたところに、当時最盛期を誇ったクメール王朝の権勢を確認することができます。

宗教と結びついた王権思想の導入によって、東南アジアの王家に、盛んな宗教建築の伝統が生まれました。

宗教建築は王権の象徴であり、自身の神性を示せなくなった瞬間に統治の正当性を失ったのです。

この王権思想と盛んな建築熱は、時として仇となることもありましたが、地域の伝統として根付き、王朝の存続と地域安定に大きく貢献しました。