Ossan's Oblige ~オッサンズ・オブリージュ~

文化とは次世代に向けた記録であり、愛の集積物である。

【類似性の歴史的背景】「東南アジアのインド化」【カンボジア・インド同祖論2/3①】

東南アジアを訪れた時に感じる「インドっぽさ」の原点

富裕層に占める華人比率が高く、中国との連関で語られがちな東南アジア。
しかし、その文化の根幹にインド文化のが脈々と流れていることは、インドシナ半島の「インドシナ」の名称を見ても明らかです。(インド+China)

東南アジアを構成するインドシナ半島(ユーラシア大陸・東南部)と海峡部(インドネシア〜フィリピン、マレーシアの島嶼群)の2地域へ、大きく紀元前4世紀頃から12世紀にかけて、「インド化」と呼ばれるインド文化の移植現象が行われました。
これが、今日東南アジアを訪れた際に感じる「インド性」の原点です。

カンボジア地域も当初からインド化の波に飲み込まれ、強い影響を受けることとなります。

インドの文字文化の流入

最も可視化しやすい影響が文字です。
今日、東南アジア各国で用いられている文字群のルーツは、南インドで発達したグランタ文字求められます。

インド人がやってくる前の東南アジアは文字文化を持たない未開文明でした。
文字がないと情報を正確に伝達することもできないので、王の統治できる範囲に制限が生じます。
同様に、歴史を記述することもできないため、統治の正当性も曖昧なまま、長続きさせることが難しくなります。
実際、「インド化」以前に文字文明を持たなかった古代東南アジア地域では、記録(碑文、歴史書)の欠落から、その時代に起きたことを辿ることができません。
そこへ最初の土台を埋め込んだインド文化の影響の大きく、埋め込みの直後から影響が現れます。

文字文化の導入を機に始まった歴史

インド式の文字文化の到来を機に、未開だった東南アジアに「歴史」や「統治」といった概念が現れ、碑文や広い領土を持つ王朝が姿を現し始めます。
東南アジアの歴史は、インド化を契機に幕を切って落とされたといっても過言ではありません。

さらに時代を経ると、本場インドの概念(ヒンドゥー教)は土着化を経て「Devaraja(神の王)」、「マンダラモデル」などの東南アジア独自の文化モデル・概念へ派生し、東南アジア独特の文化基盤を形成します。

そして、人間の階層区分を軸とするヒンドゥー教の文化モデルは、強力な王の登場を可能にしました。

東南アジアのインド化の歴史(BC4世紀〜12世紀)

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大きく紀元前4世紀〜12世紀に行われた東南アジアの「インド化」は、2つの時期に分類できます。

1 (BC4〜1世紀頃)
シルクロードの陸路ルートを経由して、インドシナ半島西部に仏教が伝わった時期

2 (1世紀〜12世紀)
インド洋の季節風貿易(ローマとインド間)の副産物として、海路で東南アジアの海峡部〜メコンデルタへヒンドゥー教が流入した時期

交易は宗教の伝播ルートの1つです。
これは、次のような事例からも伺うことができます。

仏教の中国伝播(1C : シルクロード交易)
キリスト教の世界各地への伝播(大航海時代〜帝国主義時代)
イスラム教の東南アジア流入(8C頃〜 : インド洋貿易)


東南アジアへのインド文化の流入も、遠隔地貿易のネットワークに沿って進むことになります。

インドと中国の2大文明を結ぶ地勢的重要性から、東南アジアは、印中貿易の中継港として発達することになります。

BC4〜1世紀頃の陸路ルート

古代の通商ルートは、インドから中国までの道のりを陸路を経由して至るルートです。
複数あるルートの1つがビルマ(今日のミャンマー)、タイ地方を通過していました。

同時代のインドは、アレクサンドロス大王の東方遠征を機に、インド初の統一王朝(マウリヤ朝)が成立した時期です。
仏教がアショーカ王によって保護されたことから、支配宗教の座が、従来のバラモン教から仏教へ移ることになります。
そのため、最初期のインド化では、陸路で仏教が伝播することになります。

考古学的研究による仏教伝播の経路前4世紀〜前2世紀
ビルマのピュー族の都市群へ
前3世紀
タイ地方のドヴァーラヴァティ都市群へ伝播(マウリヤ朝のアショーカ王が仏僧を派遣)

これより東のカンボジア以東は、陸路の貿易ネットワークから外れていたため、仏教は伝わらなかったようです。(部分的な交易は行われていた)

これを機に、仏教がタイ・ビルマ地方の先住民の間に広まり、地域の伝統宗教として定着していくことになります。

1世紀〜12世紀の海路ルート

この陸路の伝播ルートは、ローマ帝国の開始した季節風貿易を契機に海路へシフトします。
紀元前1世紀、ローマ帝国がオリエントを平定し、「ローマの平和」が現出します。
エジプト〜オリエントへ駐屯したローマ兵は、インド・オリエント間の貿易を妨害していた海賊など中間勢力の武力排除を行ったので、海路の遠隔地貿易が空前の活況を呈します。
以後、ローマ皇帝は、インドの香辛料や中国産の絹を求め、盛んに東方へ船を送りました。
東方の品々は、アラビア半島南部のアデンやアフリカ東岸(今日のソマリア・エチオピアがある地域)に集荷され、エジプトを経由して地中海へ運搬されます。

この季節風貿易の開始に伴い、それまであまり活発でなかったインド亜大陸の沿岸地帯に貿易港が設置され、南インドに貿易を経済基盤とする港市国家(サータヴァーハナ朝、パーンディヤ朝など)が出現します。

西洋商人は中国産の絹を強く求めたので、インド商人は中国産の製品を集荷する必要に迫られました。
そのため、インドと中国の中間地点にあたる東南アジアの沿岸地帯、中継港としての需要が生じることになります。

1世紀、インドと中国を結ぶメコンデルタ(南ベトナム)に最初の拠点オケオ(Oc Oe)が出現しました。
南インドを出た貿易船は、マレー半島のクラ地峡に到達すると、現地の運搬者によって商品が狭隘なクラ地峡を横切って対岸に運ばれ、そこから船でタイランド湾に沿ってオケオへ至り、ベトナム湾を沿って中国に到達するというルートを進みます。

メコンデルタを支配した扶南は、貿易の富を背景にこのルート全体を支配下に置いたので、貿易の独占に成功します。
オケオからは、今日でもローマ帝国時代のコインが出土し、往時の活況を物語っています。

この時期の本土インドは、マウリヤ朝の崩壊(前2世紀)から始まった長い分裂時代の最中にありました。
仏教はマウリヤ朝とともに後退し、旧バラモン勢力は、ヒンドゥー教へと脱皮しながら復古の機会を伺います。
4世紀には、(ヒンドゥー教国)グプタ朝によるインド混乱期の収拾に伴い、ヒンドゥー教が勢力を取り戻します。

この頃(1世紀〜)東南アジアへ赴いたインド商人の航には、バラモン階級の僧侶が同乗するようになっていました。


インド化と同時に姿を現した東南アジア最初期の王朝

バラモン階層は、自らの地位を担保する宗教の維持なくして居場所を作れません。
そこで、東南アジアへ到着したバラモン僧侶は、現地の支配階級に向かって、「ヒンドゥー教の儀式によって統治者の権威を裏付ける見返りにバラモン層への保護を与える」ことを提案します。統治の後ろ盾を求める現地の支配階級からこれが支持されると、バラモン階級と共にヒンドゥー教の文化モデルの流入が始まります。

そして一度、バラモン階級がインド化の道を開くと、本土インドからの広範な人々の移住が続き、東南アジアのインド化を加速させていきます。

こうした動きの中で、文字文化の流入が起こると、碑文への歴史の記述、命令の布告といった政治行動が可能となり、東南アジア史の始まりの土壌が整っていきます。
(この時輸入されたサンスクリッド語は、東南アジア先住の人々が持っていた言葉とは距離があり、取得が難しかったため、一部のエリート市民にしか開かれない貴族の言語として扱われた。)

これが東南アジアのインド化と呼ばれる現象の最初期の姿です。

これと同時に、東南アジアの島嶼部、最初期の王朝(港市国家)が姿を現します。

メコンデルタ扶南(1〜6C)
マレー半島Gangga Negara(2C〜1025)、Langkasuka(2〜15C)、Pan Pan(3〜7C)
ボルネオ島 クタイ王国(4〜5C)
ジャワ島Salakanagara(130〜362)、タルマヌガラ王国(358年〜669年)

(中国側の資料に依存する扶南は除き)サンスクリッド語由来の王朝名にも表れている通り、2世紀ごろから登場するこれら王朝の創始者は、インド商人、アレクサンダー大王の子孫(北インド系)、グプタ朝の亡命貴族、あるいはヒンドゥー教に改宗した現地人などであり、インドに関わらない人物は見当たりません。

さらに、5〜6世紀ごろには、南インドでサータヴァーハナ朝の後を継いだパッラヴァ朝がグランタ・パッラヴァ文字を開発し、これが貿易を通して東南アジアへ伝わり、今日のクメール語、タイ語、ラオス語、ビルマ語などの原型となります。(現地民が話す「音」を記述できる庶民語)


ヨーロッパ商人の撤退後、東南アジア地域への積極性を強めたインド商人

さらに7世紀、ローマ支配地のエジプトがイスラム共同体の手に渡ると、エジプト(東方商品の集荷地)とスエズのルートを遮断されたヨーロッパ商人が、インド洋貿易から姿を消します。

ヨーロッパというドル箱を失ったインド商人は、東南アジアに活路を求め、東南アジア進出の勢いを加速させます。

インド文明にとっての東南アジアとは、古くから資源溢れる魅力的な地域「スワンナブーミ(黄金の大陸”Golden Land”)」として重視されていたのです。(反対に中華文明からは辺境の野蛮国とみなされていたため、移住が進まなかった。)

5~6世紀頃、航海技術の発達とともに、印中の貿易ネットワークが海路に集中すると、貿易ルートの中軸が「マラッカ海峡〜スンダ海峡を通過するルート」へ移行します。
この動きは、貿易ルートの通るスマトラ島とジャワ島の繁栄を促し、シュリーヴィジャヤ王国の台頭をもたらす一方、古いルートの衰退を伴ったため扶南は滅亡(550年)。

さらに8世紀には、大陸で唐の衰退が始まり、陸路ネットワーク(シルクロード)の防備が弱体化したことは、海路ネットワークをいっそう重視させる方向に働きます。

こうした後押しを受け、シュリーヴィジャヤ王国は、東南アジアのほとんどの島嶼群を傘下に収め、8世紀の終わりまでにメコンデルタの真臘(扶南を滅ぼしたクメール人の国)沿岸部も併合。
9世紀には、王族同士の結婚を通してジャワのシャイレンドラ朝と合同を果たし、東南アジアの貿易ルートほぼ全体を支配下に収めることに成功します。

さらには中国人の好む貿易資源(犀角や象牙など)の調達を試みアフリカへも進出し、9世紀にアフリカ大陸近海のマダガスカル島、10世紀にはアフリカ本土へ遠征を行うほどの権勢を張ります。

ところが、こうした繁栄は、南インドの勢力に目をつけられる結果を招きました。

1025年、インド洋の制海権を奪いたいチョーラ朝の思惑を、クメール帝国からの対仏教勢力(シュリーヴィジャヤ、タルマランガ)戦への救援の依頼が後押しし、シュリーヴィジャヤ領への遠征が実現。
南インドのチョーラ朝がシュリーヴィジャヤ王国に対して勝利を収めると、覇権勢力シュリーヴィジャヤ王国の敗北をきっかけに、地域の勢力図に混乱が生じます。


東南アジアにおけるイスラム教の台頭

こうした中、勢力を強めてきたのがイスラム勢力です。

1136年にマレー半島のケダがイスラム教に改宗すると、1267年にはスマトラ島のサムドラ・パサイがイスラム教に改宗。

15世紀の終わりまでには、マレー半島とスマトラ島を中心に、ジャワを含む複数の地域がイスラム教徒の統治者によって統治されていました。

東南アジア最後のヒンドゥー教国となったマジャパヒト王国も、シュリーヴィジャヤに代わる形で14世紀までジャワで栄華を保っていましたが、中国の明朝との溝を深めたことが災いし、地域覇権のライバルであるイスラム教国・マラッカ王国への支援を招きます。

(中国の援助を受けながら)ヒンドゥー教国マジャパヒト王国がイスラム教国マラッカ王国によって敗れると、東南アジア海峡部におけるイスラム勢力の優位が確定します。

この勢力交替を機に、それまで根付いていたインド文化は上書き圧力を余儀なくされ、「東南アジアのインド化」の時代も終わりを告げることになります。

このイスラム勢力の支配は、1511年のポルトガルの攻撃によるマラッカ王国の陥落(大航海時代)まで続くことになります。


インドシナ半島の覇権勢力・クメール帝国の台頭

インドシナ半島では、権勢を誇ったシュリーヴィジャヤ王国の衰退に伴い、高い農業生産力を背景にクメール帝国が勢いを強めていました。

11世紀には、南インドのチョーラ朝との同盟を果たし、西はマレー半島北部、東はカンボジア、北はラオスというカンボジア史・黄金期の領土を実現し、12世紀には王の宇宙規模の栄華を記念してアンコール・ワットを建設。
国内外に王の権威を示します。
ところが、13世紀に独立し始めたタイ族に押される形で都アンコールを放棄。

タイ族の王朝(スコータイ朝、アユタヤ朝)にインドシナ半島の覇権を譲り渡し、自らは南方のプノンペンへ去ることになりました。

それと同時に、イスラム勢力に譲り渡した海路と同様、インドシナ半島におけるインド化の影響も下火に向かいます。

しかしながら、タイ族の王朝群は仏教を継承したので、海峡部に比べるとインド化時代の痕跡の喪失も少なく、文化の中に留めています。