オッサンズ・オブリージュ

文化とは次世代に向けた記録であり、愛の集積物である。

【タイの白人至上主義の原点?】ラタナコーシン朝時代のシャム(タイ)

アユタヤ陥落後の混乱期をまとめ領土拡大を果たしたトンブリー朝

1767年にビルマ・コンバウン朝の支配を受けたアユタヤ朝。
しかし、ビルマのアユタヤ支配は7ヶ月程度しか続きませんでした。

ビルマ側で清朝との清緬戦争(清朝・ビルマ戦争)が激化したためです。
清朝の軍隊はコンバウン朝(ビルマ)の首都に迫り、アユタヤ陥落の翌年1768年には、軍の召集のためビルマ軍はアユタヤから引き上げていきます。

アユタヤ崩壊後の混乱期、6つの王国に分裂していた国土をまとめ上げたのが、アユタヤ朝時代にタク(Tak)の地方領主を務めていたタクシンです。

華僑系タイ人のタクシンは、1767年11月にトンブリー占拠すると、翌年1768年にはビルマの主力部隊を撃破。
アユタヤ奪還を果たし、ビルマからの独立を宣言します。

都市の損耗のためアユタヤは放棄し、対中国、イギリス・オランダ貿易を重視する目的から、都は外洋まで20kmのトンブリーが選ばれます。(今日のカオサン通りからチャオプラヤー川を渡った先にある土地)

諸外国からの独立承認は、ポルトガルからは得られませんでしたが、オランダ、イギリスとは外交関係の締結に成功しています。
ジャワ島のオランダ総督から1770年に2,200挺のショットガンを、イギリスからも1776年にペナンのフランシス・ライトから1,400挺のフリントロック式銃と贈物が贈られています。

不安定な情勢のため、大都市を築くには至りませんでしたが、首都を得るとすぐに国内統一を開始し、弱小勢力から掌握する戦略によって1770年に国内の再統一を完成。
その後送られてきたビルマ軍も撃退します。

それでもアユタヤ占領を諦めないビルマは、清緬戦争の和平後、1774年~1776年まで立て続けに占領軍を派遣してきます。
しかし、タクシン王とチャオプラヤチャクリ(のちのラーマ1世)の強力な軍隊に阻まれて挫折。
結局シンビューシン王の死を受けて、1776年にビルマの再占領軍は撤退。
以降は内乱の鎮圧に追われたため、1785年までビルマのタイ侵攻は収まります。

度重なるビルマ戦の中、タクシン王は北部チェンマイの死守こそ王国安定の絶対条件だと考え、(16世紀以降ビルマ領となっていた)ラーンナー(チェンマイ)の再征服を計画します。

1771年~1775年にかけて2度の侵攻が行われた結果、1775年にチェンマイが陥落。
しかしビルマにとっても、ラーンナーは、東方への影響力を保つ上で、外すことのできない地域でした。
1776年には6,000人のビルマ軍によって再占領が実行されますが、トンブリー軍の頑強な抵抗により撤退を余儀なくされます。

ラーンナーの防衛には成功したものの、戦闘の過程でラーンナー(チェンマイ)は大きく疲弊し、タクシンはチェンマイの放棄を余儀なくされました。
この時、住民はラムプーンへ強制移住されたため、事実上の焦土作戦により、チェンマイの地は荒地と化したまま15年間放置され、のち再びシャムによって回収されることになります。


カンボジアへの介入と西山党の蜂起
さらに東方でも、1769年にカンボジア王位が王の弟によって簒奪される政変が起きると、これを利用して影響力行使を試みます。
当時のカンボジアは暗黒時代と呼ばれる時期で、東西からベトナム・カンボジアの2大勢力によって板挟みになっている状況でした。

1769年、トンブリー朝は、カンボジアに勢力を広げていたベトナムの阮氏広南国と戦い、これを破ります。
そのままカンボジア旧王ラムラージャの復古を支持し、新王を支援していた阮氏広南国に対し、1770年に宣戦を布告しました。
当初は劣勢を強いられたものの、1771年~1772年の2度の戦闘で阮氏広南国を破ったタイ・カンボジア連合軍は、カンボジアの旧王を復古させることに成功。

一方、ベトナムの阮氏広南国は、1769年の対トンブリー敗戦以来、手放したカンボジア植民地の埋め合わせとして、本国の住民に重税を課すようになっていました。
役人の汚職も横行し、民衆の不満が高まる中、民衆の支持(外国勢力も)を得た西山出身の阮氏3兄弟(広南阮氏とは無関係)が西山党を起こし、1773年にはクイニョンの港を占拠します。
当初は楽観していた阮氏広南国も、ようやく革命の脅威を理解し始めます。
すぐさまトンブリー朝との和平に転じるも、阮氏の窮地を悟った北の鄭主がすぐさま侵攻を開始し、鄭阮との100年の休戦に終止符を打ちます。

この内戦によって、広南阮氏は、阮福映(のちにフランスの援助を受け、ベトナムの統一王朝[阮朝]を開く)を除き、一族抹殺の憂き目を見ることになります。

この内乱の最中、トンブリー朝は、阮氏広南国の亡命者を多数受け入れました。
そのうちの1人、阮福映はトンブリー朝との同盟を模索しますが、西山党の阮恵による分離工作によって離反すると、タクシン王がベトナム人亡命者を処刑・追放したことが火種となり、その後、トンブリー朝と阮朝は再び交戦に転じます。


ラオス3王朝の獲得
またタクシン王はカンボジアのみならず、分裂状態にあったラオスにも支配権を及ぼすことを画策しました。

1777年には、トンブリー王朝輩下のナンロン(Nang Rong)の反乱の背後にチャンパーサック王国の支援があったことを理由にチャンパーサック王国を攻撃し征服。
この王国には、Pra Wohという反乱の罪でヴィエンチャン王国を追放された人物がいました。
タクシンがチャンパーサックを収めた時、Pra Wohはトンブリー朝に臣従を誓います。

ところが、トンブリー朝の軍隊がチャンパーサックから撤退した後、Pra Wohがヴィエンチャン王国の派遣した軍隊によって殺害される事件が起こります。

こうして、トンブリー朝への冒涜という口実を得たタクシンは、ヴィエンチャン王国攻撃を決定。
この侵攻に先んじて、ルアンパバーン王国からタクシンへ、降伏の願い出が届きます。
当時のラオスは、1707年の分裂以来、ヴィエンチャン王国とルアンパバーン王国の二大勢力がラオス統一を巡って争っている状態でした。(チャンパーサック王国は、1713年にヴィエンチャン王国より独立)
ルアンパバーン王国は、利害の一致したトンブリー朝と一緒に、ヴィエンチャン王国攻撃を実行したいと言うのです。

これがタクシンによって承諾されると、トンブリー朝・ルアンパバーン王国協力下でヴィエンチャン王国包囲戦を実行。

トンブリー朝・ルアンパバーン王国連合軍は、ヴィエンチャン王国を圧倒し、ヴィエンチャンの王族はトンブリーに連行されました。

さらに当時、アユタヤ朝に代わる威光を求めていたタクシンは、ラオスの神器にも等しいエメラルド仏(今日ワットプラケーオに安置されているプラ・ケーオ)やプラバン(ラーンサーン王国の成立にゆかりのある仏像で、ラオスの統治権を象徴するシンボルとして大切にされてきた)をトンブリーに持ち去りました。

こうしてラオス3王国は全てトンブリー朝の傘下に下り、その後フランス領インドシナに組み込まれるまで、ラオスは100年以上シャムの属国であり続けます。


カンボジアでの泰越の衝突再び、ところが
タイ(トンブリー朝)とベトナム(阮氏広南国)は、カンボジアのラムラージャ王の復位以来、休戦状態にありましたが、再び火種がくすぶりつつありました。

1780年、かつてカンボジア王位の簒奪を試みた王の弟とその子が相次いで不審死を遂げる事件が起こります。

この事件を裏で手を引いていたと思われるラムラージャ王が、死亡した弟の子タラハによって殺害され、傀儡王アン・エンを擁立して親ベトナム政策を展開するようになると、先王ラムラージャに親和的であったトンブリー朝と対立します。

これに対しタクシンは、チャオプラヤ・チャクリ(のちのラーマ1世)とその弟率いる2万人の軍隊を派遣。
タクシンの息子インタラピタクをカンボジア王に据えることを画策したため、ベトナム側も3万人の兵力をカンボジアに派遣して対抗します。

ところが、戦争が目前に迫ったところで、トンブリーでクーデターが発生します。


クーデターの背景
タクシン王自身の出自も関係し、即位直後から中国移民の受け入れが奨励され、主に広東省潮州市からやってきた大量の移民に要職を与えるなど、優遇を与えていました。
度重なる軍事キャンペーンで功績を残した後のラーマ1世もまた、華僑系の母親に持つ中国系タイ人でした。

対外戦争を戦い抜くための食料、また王朝を支える物資も、潮州の華僑商人の助けを受けて入手しました。
こうしたことから、中国および華僑商人に対する負債は数百万バーツにも膨らんでおり、その返済負担は重税として民を苦しめます。

こうしたタクシンの政策は、当然ながら、アユタヤ朝時代から続く土着貴族の不満を高めます。
特に17世紀に起源を持つペルシャ系のバナッグ家(山田長政と同じくソンタム王の庇護を受け西の物資供給を担う商人として保護された)の不満は大きく、幼少期からタクシンと対立関係を抱えていた彼は、クーデターの発生に大きく貢献したとされます。

さらに1781年の時点で既に、(西洋人が残した記録によると)タクシン王の精神疾患が度を増して進行しており、いきすぎた神格化のせいか、自らを仏陀の化身だと公言し、肯定しない側近は左遷、鞭打ちに処すなど、側近への横暴が見るに耐えないほど悪化していました。

これに対し、臣下のパラヤサンがクーデターを決起し、一夜のうちにトンブリーを包囲。
タクシン王を強制出家の罪に処します。


チャオプラヤ・チャクリの活躍
後にチャクリ朝を開くチャオプラヤ・チャクリ(ラーマ1世)は、このときカンボジア戦線に向かっていました。

しかし、クーデターの発生を知らされた彼は、ベトナムからの追撃がないことを悟ると(西山党への対処に迫られていた)、一転してカンボジア戦線から姿を消し、すぐさまトンブリーに帰還します。

トンブリーに戻った彼はクーデターをまとめあげ、フランス革命が起こる7年前の1782年にWichai Prasit fortress(ワットルアンの南にある)の前でタクシンを斬首刑に処し、都バンコクを建設し、タクシン王亡き後のシャムにラーマ1世として即位したのでした。(1782年 : チャクリ朝の成立)


チャクリー朝の成立〜帝国主義時代の到来まで

チャクリ朝とラタナコーシン朝の違い
タクシン追放後の混乱をまとめあげたチャオプラヤチャクリは、チャクリ朝を開き、ラーマ1世として即位します。
王朝名は、チャクリの即位前の官位にちなんで「チャクリ」と命名され、今日に至るまでタイの支配王朝として存続し続けています。
日本のネットでは、ラタナコーシン朝とチャクリ朝を混同している場合が多いですが、英語ネットでのラタナコーシン朝は「1932年のシャム立憲革命までのチャクリ朝」として認識されているようです。



インドシナにおいてそれまでもそうだったように、この王朝も成立直後からインドシナの動乱に巻き込まれることになります。ビルマ、ベトナム、カンボジア、そしてラオスで戦線を広げますが、1850年までには、欧米列強の到来により、インドシナの伝統とも言える戦国時代に終始符が打たれることになります。


対ベトナム

1783年~1785年の戦い
(西山党のサイゴン占領後、亡命してきた阮福映の求めに応じて派兵。敗北。)
1811年~1812年のカンボジア王位継承をめぐる紛争
(勢いで都市の占領に成功するも、派遣されてきたベトナム軍の強大さの前に戦わずして撤退。敗北)
1828年のラオス反乱
(シャムに対する独立を掲げたアヌウォンをベトナムが支援。鎮圧に成功。)
1832年の黎文カイの乱への介入
(反乱軍への支援、軍隊の派遣。阮朝により鎮圧。)
1831年~1834年の戦争
(シャムが北部からカンボジアへ侵攻。派遣されたベトナム軍の攻撃により撤退。)
1841年~1846年のカンボジア反乱を利用しての介入
(カンボジア人の不満を利用して介入。一時は首都を占領するも、その後派遣されたベトナム軍に敗北。対ベトナムを結び、以降のカンボジア共同統治が決定。)

1782年のラタナコーシン朝成立から1850年代に至るまで、少なくとも5度戦火を交えており、1828年のアヌウォンの反乱鎮圧の成功を除き、いずれもフランスの援助を受けた阮朝に劣勢であり続けました。


対ビルマ

1785年-1786年の泰緬戦争
(タイの新王朝発足直後の混乱を利用したビルマによる、タイの南北4都市への侵攻。ラーマ1世の活躍もあり、奪われた全ての都市を奪還。勝利。)
1787年のラタナコーシン朝のテナサリム地方侵攻
(歴史的紛争地帯への領土拡大を試みるも、ビルマの抵抗に逢い断念。)
1792年のラタナコーシン朝のテナサリム地方侵攻
(ビルマが防衛に成功。)
1797年のビルマのラーンナー、ルアンパバーンへの侵攻
(ラタナコーシン朝が防衛に成功)
1803年-1808年のラタナコーシン朝のチャイントン、シップソンパンナーへの侵攻
(ビルマが防衛に成功)
1809年-1812年のビルマの攻撃
(4度に渡るプーケット島へのビルマ軍の侵攻。全て退け、ビルマの海軍力に多大な損失を与えた。ビルマは海峡付近への攻撃を諦め、侵攻の矛先を西のアッサム、アラカンに移した結果、イギリス東インド会社の利権と衝突することになる。)
1824年~1826年の英緬戦争への参加
(大きな活躍はしなかったが、バーニー条約に基づきイギリス側として参戦。)
1849年~1855年のラタナコーシン朝の攻撃で始まった英面戦争
(約20度に及ぶ泰緬戦争のラスト。北部ラーンナー地方を取り戻すためにビルマが英緬戦争に追われている隙をついて侵攻。英緬戦争を終え近代装備を整えたビルマがラタナコーシン朝を撃退したのち膠着状態に入り終戦。以降タイの戦争は、英仏に対する失地回復戦を中心に繰り広げられ、インドシナの戦国時代は終焉した。)


タイにとってのビルマは、1767年にアユタヤを破壊された宿敵です。
この時は、優秀な指導者と内乱鎮圧で鍛えられた精強な軍隊で、傭兵部隊中心のアユタヤ朝軍の防備を圧倒したビルマ。
しかし、王朝の成立直後に内乱に見舞われたビルマに、長期戦を戦い抜くだけの力は残されていませんでした。
そのようなビルマに対し、ラタナコーシン朝は優勢な戦いを続けます。
1785年に始まった兵力50,000人のビルマ軍を退けた後は攻勢に転じ、テナサリム、ビルマ北部のチャイントン、シップソンパンナーを攻撃。
さらには、プーケット島の防衛でビルマの海軍力に多大なダメージを与えたことで、ビルマに東征を諦めさせることに成功しています。
結果、宿敵ビルマは西征に転じ、イギリス東インド会社のインド利権と衝突し、1824年から始まる3度の英緬戦争の末、1885年にイギリス東インド会社へ完全併合されることになりました。


対ラオス
ラオスでは、アヌウォンがラタナコーシン朝に対し反乱を企てます。
背景には、以下のような要因が挙げられます。

・エメラルド仏とプラバンの返却・インフラ整備・ルアンパバーン併合などの実現により国力の充実を実感していた
・1826年の泰英間で結ばれたバーニー条約をイギリスのシャム侵略の前兆と見誤った
・ラーマ3世下での識別政策としてラオス住民の手首に所属する村名を刺青で刻印する政策が実施された
・ラーマ2世の葬儀中に王子が侮辱された


アヌウォンの兵力10,000人の部隊と4つの分隊は、ラタナコーシン朝の軍隊に歯が立たず撤退。

しかし、アヌウォンは撤退後に現ヤソートーン県に戦勝記念碑を建設していました。
ワット・トゥン・サワン・チャイヤプーム(Wat Thung Sawang Chaiyaphum)の建築を知ったラーマ3世はひどく立腹し、アヌウォンの捕縛とヴィエンチャンの徹底破壊を命じます。

アヌウォンは、鉄のカゴに入れられたまま市中で晒され、ヴィエンチャンに対する破壊が実行されました。
その壊滅の酷さは、後にフランス人がヴィエンチャンに到着した時、森林に覆われてしまっていたほどです。
これはフランス人に「都市の再興」という進出の大義を与える結果となりました。
また、ラオスに居住していた住民に対する大々的な強制移住が実施され、ラオ族に強烈な民族主義を呼び覚まさせました。
この事件の名残は、タイとラオスの人口分布に表れています。
ラオスの総人口が約690万人に過ぎないの対し、タイ東部のイーサン地方にはおよそ1,900万人のラオ族(国籍上はタイ人)が居住していると言われます。


その他の地域
また1821年には、マレー半島のケダを支配していたケダ・スルタン国を攻撃し、 ケダを獲得します。
この攻撃の背景には、対ビルマ戦で疲弊したスズの産地・プーケットの代替という目的がありました。
その後、立て続けにプルリス、サトゥーンという隣接地域の併合に成功しますが、マレー半島に勢力を伸ばしたイギリスとの摩擦の原因となり、これらの地域は、1909年の国境確定の際にイギリス領へ移されています。

カンボジアはベトナムとの代理戦争の舞台となり、1846年の和平によってカンボジアの泰越での共同統治が決定しています。


とはいえ、1851年に不慮の死を遂げたラーマ3世が残したように、19世紀のシャムにおける最大の脅威は、もはや近隣諸国ではなく、西欧より押し寄せる帝国主義の勢力でした。

フランス進出後のラタナコーシン朝

イギリスに妥協的だったシャム

19世紀になると、イギリス産業革命の波及したヨーロッパと、アジアの国力の差が圧倒的に開き始めます。
この格差は帝国主義となってアジアを席巻し、インドシナのシャムもこの流れに飲み込まれていきます。
インドシナ半島へは、主にイギリス(ビルマ、マレー、シンガポール)、フランス(ベトナム、カンボジア、ラオス)が進出し、2大勢力に挟まれたシャムは2大国が衝突しないための緩衝地帯として独立を守り通すことになります。


西洋の帝国主義はラーマ2世(1809年~1824年)の頃にシャムへ押し寄せました。
イギリス東インド会社は、1786年にペナンを占領し、1819年にシンガポールを建設すると、1822年にはビルマで英緬戦争を始めました。
イギリスの影響はタイにも押し寄せ、オランダ、ポルトガルに代わり、タイの政治経済に最大の影響力を及ぼす国として台頭します。
1826年には、ヨーロッパとの初の通商協定バーニー条約が締結。
税体系の統一、対外貿易の減税、王室の貿易独占の一部撤廃などの通商上の措置が取られました。
英緬戦争の協力も約束し、軍隊の強化のため、大量の軍事品をイギリスから購入します。


さらに1850年に、更なる妥協を求める英米の使者が、貿易規制の撤廃、王国統治の西洋化、治外法権といった不平等条約を求め、これをラーマ3世が拒否すると、1855年には香港総督のジョン・ボーリングが戦艦を率いて武力外交を展開。
ラーマ3世の後を継いだラーマ4世に改革を求めます。
結局ラーマ4世は、輸入関税の3%、王家の独占貿易の排除といった不平等の締結を承認し、同様の不平等条約を他の西洋諸国とも結びました。


西洋諸国との対決を訴えたラーマ3世と違い、ラーマ4世は西洋諸国に妥協的だったとされます。
なぜなら、フランスに対する防波堤の役割をイギリスに期待したからです。
フランスは、阮朝の統一事業を援助した見返りとして、ベトナムでの布教活動の自由を獲得し、これを逆手にとった宗教クーデターをベトナムで繰り返していました。(最も代表的なのが1832年の黎文カイの乱)
これを政治脅威と見た阮朝は弾圧を強め、フランスのベトナム侵攻目前という状況でした。(1858年に宣教師保護を名目にダナンを攻撃)


そんな中、シャムにとっての最適解は、イギリスの通商要求に譲歩を重ねることでした。
シャムをイギリスの勢力図に加えてしまえば、フランスの侵攻に際して防衛を期待できるとの判断です。

しかし、それはシャムの一方的な期待に過ぎませんでした。

フランスによるラオス占領

1858年のダナン攻撃、翌年1859年のサイゴン(ホーチミン)で橋頭堡を築いたフランスは、1863年にカンボジアから保護要求を受け、カンボジアを併合。(タイ、ベトナムの植民地となっていた)

さらに1885年の清仏戦争の勝利で全ベトナムの統一を達成し、1887年にフランス領インドシナが成立すると、1888年には反乱鎮圧の名目でラオス北部を侵略。
そして、1893年にはラオスの利権を握っていたシャムへ、ラオス全土の割譲を要求します。

トンブリー朝以来の植民地であるラオスの割譲要求は、シャムとの衝突に発展します。
1893年には、国境紛争での小競り合いとパークナム事件から、仏泰戦争が勃発。
シャム軍は最新鋭の装備を揃えるフランス軍に歯が立たず、フランスの最後通牒に沈黙を貫いた結果、フランスによるタイランド湾の封鎖、チャンタブリーとトラートの軍事占領という強行措置を招き、ラオス放棄だけでなくカンボジアの武装解除を迫られます。

こうしたフランスの過剰要求に対し、シャムはイギリスの協力を要請するも、イギリスは、ただシャム本土の安全を保障するだけでした。
経済的妥協を重ねてきたイギリスの裏切りに対する失望は、その後のシャムを、明治改革で中国を上回る国力を身につけた日本、ビスマルク下で統一を達成したドイツに傾斜させることになります。(後の枢軸国)

また英仏は、それぞれの植民地(ビルマ、ベトナム)から雲南へ至るルートの構築に血道をあげており、ラオス(フランス領インドシナ)とシャン州(イギリス領ビルマ)が国境を接したことから、軍事衝突寸前にまで陥ります。(雲南問題)
しかし、1896年の英仏宣言で勢力図の確認が行われ、このときシャムは緩衝地帯として独立を維持することが決定します。

その後もフランスの領土要求は続き、1909年にこれをイギリスが牽制し、近代的な国境線を画定させました。
またこのとき、1867年のカンボジア放棄の見返りに手に入れたサイアムナコーン(シエムリアップ)が、バッタンバンと共にカンボジアに返還され、カンボジア人によってシエムリアップに改名されています。


タイ人の白人至上主義化

この時点で、西洋と東洋の格差は明らかでした。
この力の差は、17世紀以降ヨーロッパに排外的だったシャム人を、親ヨーロッパ的に転じさせるに至らしめます。
初期のラタナコーシン朝は、前王朝と同様に、中国系人材を優遇し、農民から高位の位まで、積極的に受け入れました。
これに対し、ラーマ6世(1910年-1925年)が中国人について「東洋のユダヤ人」という書籍で痛烈に批判したことは重要なターニングポイントだと言えます。

タイ国旗も、赤背景に像が写っている模様から、ヨーロッパ式の赤・白・紺・白・赤が並ぶ現在の三色旗に、1917年に変更されました。


第一次世界大戦の活躍と国連加盟

19世紀に結ばれた不平等条約は、タイがアジアのいち植民地に過ぎないことを示していました。
この不平等条約を撤廃に踏み切らせ、国際連盟(弱小国扱いながら)の一員に上り詰めさせたのが、第一次世界大戦への参戦と勝利です。
イギリス、フランスを伺ってドイツ、オーストリアに宣戦した後、連合軍の支援のためフランスに軍隊を派遣。
戦場となったヨーロッパ・ドイツ植民地ともに離れていたため、大軍の派遣はかないませんでしたが、東南アジア唯一の独立国として参戦を果たし、19名の犠牲者を出しつつも、ラインラント占領への貢献など役目を果たします。

シャムの貢献は国際社会に認められ、英米仏は、以降シャムへの領土要求を停止。
1920年には国連加盟も果たし、独立国家シャムの存在が承認されるに至ります。


1932年の立憲革命によるシャム絶対王政の終焉

しかし、第一次世界大戦後の世界不況がタイを覆うと、王朝の浪費、要職を王族が占める非合理性が表面化し、王朝運営に疑問が投げかけられるようになりました。
全ての権力を握っていた王は、軍事費を含む歳出のカットで切り抜けようとしました。
軍事費削減は軍人の給与カットを招き、自ずと軍人の不満を高めます。
不穏な空気が立ち込める中、1932年4月にラーマ5世は憲法導入を発布。
これに対し、納得のいかない軍部は、1932年6月にラーマ5世の外出の隙をついてクーデターを決行。
少数の軍人と市民からなる過激派の無血クーデターによっておよそ800年続いたタイの絶対王政は終焉し、タイは立憲君主制に移行しました。
フランス革命とロシア革命から学んだ過激派の軍人・市民からなる「人民党」はその後、タイの初代与党の座を得ています。