Ossan's Oblige ~オッサンズ・オブリージュ~

文化とは次世代に向けた記録であり、愛の集積物である。

覇権大国・モンゴル帝国が世界にもたらしたもの【モンゴル帝国なくして大航海時代なし】

モンゴル帝国は、アメリカ帝国の先駆け

20世紀、アメリカ合衆国は、ベトナム戦争をはじめとする獰猛な暴力主義で世界覇権を達成した。

21世紀になると、その暴力的なスタイルを改め、日米欧の金融ネットワークに基づく、資本主義を通した支配へと転換した。

資本主義の世界では、全てに値札がつくので、理論上、究極量の金があれば、地球ごと買い占めることができる。

このクールで合理的なスタイルチェンジの背景には、志半ばで倒れた歴代の覇権大国の失敗が横たわっているに違いない。


日夜血眼になって政策計画に打ち込むアメリカ合衆国の上層部に、最大のヒントを提供してくれるのは、先人である。

モンゴル帝国について調べていて、今日にもたらした影響が予想以上に大きかったので、まとめることにする。


人の移動のグローバル化

武力で中国を制し、モンゴル帝国の代表者となったフビライ・ハンは、ヨーロッパ社会に強い関心を持った。
背景には、自身の母親がキリスト教徒だったこと、分割統治国の1つイル・ハン国がキリスト教化するなど、ヨーロッパ側からの宣教事業が進んでいたことなどが考えられる。

そこで統治者となったフビライは、外交関係を確立すべく、ヨーロッパ諸国へ宣教師の派遣を求める使節を送った。

当時のヨーロッパは、中東で対イスラム戦を戦っていたので、同盟関係を結ぶことのできる強大な勢力を欲していた。
そのため、ヨーロッパに到着した使節は、キリスト教陣営に受け入れられ、返礼としてヨーロッパから遠く中国へ至る宣教師の遣使が実現した。

それと同時期、ユーラシアの横断に歴史的意義を持つプラノカルピニ、ルブルック、イブン・バットゥータといった人物が歴史に姿を現している。
さらに、水面下では使節だけでなく、商人、旅行者といった階層も、中国とヨーロッパを行き来するようになっていた。
東方見聞録の著者、マルコポーロもその一人である。
中国にあったフビライの宮廷に少なくない数のヨーロッパ人が仕えていたことも、当時の「人材のグローバル化」を物語っているだろう。

それでは、こうした交流のグローバル化は、単にフビライの好奇心や対中東戦のために同盟関係を構築したいヨーロッパ側の関心という動機だけで実現したのだろうか?

それも重要な要因だろうが、それだけではない。

確かに古代から玄奘和尚のナーランダー大学留学に見られるごとく、地域を越えた人材の交流は行われていた。
しかし点在的であり、実例に乏しい印書がある。

それがこの時代に一気が交流が開けたのは、大国による覇権と切り離すことができない。
大国は道路の警備を行い、旅行者や商人を襲う盗賊の駆除、アンダーグラウンド勢力の鎮圧といった警察事業をも国内統治の枠組みで手がける。
文明圏を跨いだ大国の警備機能が実現したことにより、人々はそれまで通過することの難しかった異民族エリアにも足を運ぶことができるようになったのである。

それは、紀元前1世紀に中東地域を治めローマの覇権を達成したローマ帝国が、国家暴力の元に遠隔地貿易を妨げる海賊勢力を排除し、インド洋貿易の道を開いたのと似ている。


古くからシルクロードや海の道を通して、ヨーロッパと中国の交流軸は確立していた。
しかし、それは各地の商人ネットワークを通じた商品の国際的流通のことを指し、決してユーラシア全域を人々が行き交ったわけではない。
そんな中、13世紀にヨーロッパから中国まで直接足を運ぶ人々の群れが現れ始めたのは、ユーラシアの征服事業(覇権)を成し遂げたモンゴル帝国による保護機能あってのものだった。

人材のグローバル化の道を開いた、あるいは大きく前進させたことは、モンゴル帝国が果たした重要な歴史的貢献の1つといえるだろう。


商業圏の拡大

モンゴル帝国は、ただ散発的な治安維持を行ったのではなく、道路の整備も行った。
モンゴル軍が支配下に収めた広大な地域は統一の交通規格で接続され、それまで異なるルールで動いていた地域同士が互いに接続されていった。

かつて、ユーラシア西部で覇権を達成したローマ帝国を象徴する言葉として次のようなものがある。

「すべての道はローマに続く」

交通網の整備は、広大な領域を獲得した覇権国共通の課題なのである。
なぜなら、軍事、諜報、警察の基礎となる条件だからである。

「広域に及ぶ警察機能」から「商業ルートの拡大」が派生することは、「ローマの平和」の後に続いた季節風貿易の活況の事例からも、普遍性を確認できるだろう。


13世紀のモンゴル帝国の場合、帝国の各地に「ジャムチ」と呼ばれる中継地(駅)が設置された。

こうした基礎条件が人の移動を促すと、経済活動も活性化した。
同時に帝国は関税を撤廃し自由貿易を奨励したことから、支配地域全体が交易網で結ばれ、統合が加速した。

後年、モンゴル帝国は崩壊し、傘下の現地勢力が自立傾向を高めていくことになる。
モンゴル帝国の名前が地図から消えても、その交易網は残り、のちに台頭する明朝、モスクワ大公国やティムール朝などの勢力基盤として継承された。


文化の伝播

商人のネットワークは、文化や宗教の伝達経路として機能する。
これは、仏教の中国伝播(陸路シルクロード)、東南アジアのインド化、イスラム化(季節風貿易期~イスラムの中東支配期に伴うムスリムの海上支配)、大航海時代におけるキリスト教国の続発
といった現象からも普遍性を確認できる。

この時期、ユーラシアの西部へは拡大を続けるイスラム教国への抵抗が行われており、ローマ教皇主導の十字軍遠征として実体化していた。
その結果、軍人や商人が持ち帰った戦利品の1つが、ギリシャ哲学だった。
アリストテレスをはじめとする自然哲学の体系は、キリスト教の絶対神と結びつき、確実にヨーロッパの運命を変える契機となった。
後のヨーロッパは、世界に先駆けて実用可能な火器を実装し、ギリシャ哲学で培った科学により中国文明を改良し(火器、羅針盤、活版印刷)、世界の海に覇を唱えることになる。

さて、モンゴル帝国の交通網でも文化の伝播が実現している。
例えば、支配地域の中国と西アジアの間で、絵画の技法が伝わった結果、西アジアで細密画が発達した。
さらに、中国へ天文学や世界最先端のイスラム科学が伝えられ、後の鄭和の大遠征へと続く条件を整えた。


火器

モンゴル帝国の大事業の結果、ヨーロッパへ三大文明の原型が伝わった。
これらは、中国文明の起源だったが、ヨーロッパへたどり着くと、キリスト教とギリシャ哲学を基礎とする最初期の科学によって改良され、実用可能な技術へと脱皮した。

火器、羅針盤、活版印刷の中でも最も重要なのが、火器だろう。

火器は、明らかに軍の威力を神的なレベルに飛躍させ、世界の歴史を様変わりさせた。

発明者であるヨーロッパへは、アメリカ大陸の植民地化、大航海時代(ゴア、マラッカの武力占領)などの恩恵をもたらした。

同時に、所有者を選ばない兵器は、イスラムの手にも渡り、ヨーロッパをイスラム・アジア世界から守ってきたコンスタンティノープルの三重の城壁でさえ耐え切れずに陥落した。
東ローマという防波堤の崩壊と共に、ヨーロッパはイスラム教国・オスマン・トルコの脅威に晒されることとなり、東欧を奪われ、オーストリアにまで迫られることになった。

さらに東方では、商人を通して日本や南ベトナムに鉄砲の製造技術が伝わり、ヨーロッパ技術師の手厚い技術支援によって現地勢力に自給化を達成させている。
東洋に伝わった火器は、現地の内乱を収束させるとともに、特に日本では強力な統一王朝の登場を促した。

日本の徳川幕府の登場を機に、東洋のパワーバランスは逆転し、伝統的な覇権国家中国は、鉄砲を携帯した日本軍によって「侵略される側」へと転落することになった。


このように世界の歴史を様変わりさせた火器も、ヨーロッパへ伝わる前は、戦闘で実用できる水準には達していなかった。
11世紀頃までに黒色火薬(硝石、硫黄、木炭を主成分)の製造技術は確立していたものの、単なる爆発物でしかなかった。

それがバトゥのヨーロッパ遠征を契機にヨーロッパへ伝えると、現地の世界観に基づいて改良が重ねられ、驚異的な殺戮兵器として世界史の表舞台に姿を現わしたのである。
また、鉄砲の改良という課題は、ヨーロッパへ物理学の進歩を促し、17世紀のニュートンの貢献によって近代科学が創始されることになった。


こうした世界の進歩現象を玉突きのように開始させたのは、分散していた諸文明の利を統合させたモンゴル帝国と見てよいのではないか。


信用制度

モンゴル帝国は広大な支配地域へ、統一の社会規格を導入していった。
これにより、異文化で隔てられていた社会が、統合に向けて一歩前進したことは先に述べたとおりである。

このとき導入された統一規格の中に、今日のアメリカ帝国の成立条件にも等しい1つの発明があった。
それは、信用紙幣である。

信用、お金というと、ヨーロッパの発明品としてイメージしがちである。
もちろん火器と同様、場当たり的なアイデアでしかなかった技術に文明の彩を与えたのは、他でもない西洋圏である。


中国東北部の金で使用されていた「信用取引(紙幣)」の原理が、現地の征服でモンゴルに伝わり、征服事業を通してヨーロッパに伝わった。

実は、13世紀のモンゴル帝国の成立期は、西洋史に最初の銀行が登場した時期と重なっている。

ヨーロッパ初の銀行は、モンゴル帝国と同時代の13世紀、ヴェネツィアに出現した。
このヴェネツィアは、モンゴルの征服を受けた土地ではないが、東方との交易(レヴァント貿易)を掌握していた商業都市だったので、東方の文物にいち早く接することができたことが成立を促したと思われる。

本土の元領では、「交鈔」と呼ばれる紙幣が使われていた。

私よりも、実際に交鈔を目にしたマルコポーロの方が説得力があろう。

以下は「東方見聞録」の交鈔に関する記述である。

ハーンは毎年この紙幣を巨額に発行し、その額は世界中のすべての財宝に匹敵するが、費用は少しもかからない。
この紙切れで大ハーンはすべての支払いをすまし、ひろく国内及び勢力範囲内に通用させている。受け取るのを拒めば死刑に処せられる。大ハーンの領土内ではどこでも、純金の貨幣と全く同様に、これで品物が売買できるし、非常に軽くて便利だ。
なお、インドなどの国から、金銀、宝石、真珠などをもってきた商人は、品物を大ハーン以外に売ることを禁じられている
彼はその評価に熟練した12人の者を任命し、彼らは品物を評価し、代金はこの紙切れで支払われる。
商人は大喜びだ。
第一、他へ持っていってもこれほどよい値段では買ってくれないし、第二に、すぐ支払ってくれるからだ。しかも紙切れは国内どこででも通用するし、軽くて携帯に便利だ。商人は1年に数回、40万ベザントとの品物を持ち運ぶが、大ハーンはこれらすべてを紙幣で支払う。したがって、毎年貴重品を買い込み、財宝は無限に増えるが、少しも金はかからない。さらに1年に数回、金銀、宝石、真珠を所持するものは、造幣局に持参すれば、よい値段で買い上げる、との布告が市内に回される。所持者は喜んでこの布告に従う。
これほどよい値段で買ってくれるものは、ほかにないからである。だいたいこうして国内の高価なものは、ほとんど全部大ハーンのものになってしまう。
(中略)以上が大ハーンが世界中で一番多くの財産をもつことができ、また持っている理由とその方法である。

当時の交鈔は、今の紙幣のように芸術的な絵が印刷されているわけではなかった。
ただの紙切れであり、価値を認めない者は少なくなかったはずだ。
しかし、そうした客観的な物の見方ができる者は、鞭打ちの刑で矯正(洗脳)された


つまり、モンゴル帝国が担保する信用とは、軍事力だったのである。

軍事力を背景に、住民に紙幣の価値を認めさせることで、現地の富を一手に掌握したのである。

これは、アメリカの連邦準備制度の成立(1913年)のおよそ600年ほど前に、広大な地域へ信用制度の普及を試みていたということである。

信用制度の面では、モンゴル帝国が先駆者と見て間違いない。


それまでも北宋や金という狭いリージョナルな地域では流通していた紙幣制度を、アジアの広大な征服地へ波及させようとしたのは、フビライが初だったと見て間違いない。
武力を背景とした点でも、今日のアメリカ合衆国まで続く伝統となっており、信用制度のパイオニアといえる。

結局、モンゴルの最初期の試みは、紙幣の乱発により崩壊を迎えた。

しかし、この教訓が後世の統治者に重要な教訓を残したことに疑いはない。


福祉制度

モンゴル帝国は、広大な土地を支配したので、当然のことながら多民族問題と直面することになった。

当然、反乱を起こすもの、独立を企てるものが後を絶たなかったと予測される。

こうした、多民族化の試練に対して、モンゴル帝国は力と恐怖を用いて、弾圧を欠かさなかった。

犯罪者へは過酷な刑罰が実施され、革袋に詰めて馬で生きたまま平らになるまで踏みつぶしたり、生きたまま釜茹でにすることもあった。

違反への刑罰という恐怖によって、多民族主義が宿す治安問題を制したのである。

しかし、マルコポーロは東方見聞録の中で、一見残虐に見えるモンゴルの統治者について、「貧民はハーンを神のように崇拝している」と語っている。

背景には何があったのだろうか?

モンゴル帝国の統治者は、違反への弾圧と同時に、救貧政策を行き届かせることも欠かさなかったのである。
モンゴルの支配に従順な者、貧困家庭への保護を手厚く行い、食糧供給、減税などの福祉措置で保護したのである。

貧民は社会の危険分子であり、後の産業社会では過激な労働争議(社会主義革命)を起こす主体として危険視された。
その未然防止策として、社会福祉の概念が登場するのだが、モンゴル帝国はすでに貧民防止の策を心得ていたらしい。

強硬な弾圧に手厚い福祉政策を兼ね合わせるアメとムチの政策によって、多民族国家の安定を保とうとしたのだろう。

手厚すぎる福祉政策が、紙幣乱発を招くことは語るまでもない。

実際に紙幣乱発で崩壊した帝国の社会制度もまた、貴重な(偉大なる)失敗例として、後世の政策モデルに教訓を与えたことはいうまでもない。


グローバルな同盟関係の構築

偉大なるリーダーの喪失は、後継者争いを巻き起こす。

ギリシャ帝国がそうであったように、チンギスハンを失った後、数世代を経ずして分割の運命を迎えた。

結局領土は、チンギス・ハーンの4人の系統に相続された。

とはいえ、これは広大な領土を維持するための戦略思想に基づいて実践されたに過ぎない。

分割統治された4国は、本家のウルス(中国本土の元)を宗主とし、残りのウルスは本家に従属する形式をとっていた。

分割が実施された時点で、モンゴル帝国の統合が失われていたわけではなかった。

帝国の統一が失われたのは、宗教派閥が関わっている。

中東のイル・ハン国や東欧のキプチャク・ハン国が、キリスト教やイスラム教を受容しはじめ、本家に反旗を翻したのである。

これにより帝国の一体性は失われた。

当時、ユーラシア西部では、キリスト教徒とイスラム教徒の摩擦が、「十字軍」として表面化する情勢にあった。

こうした中、ヨーロッパの辺境部で領土問題(アゼルバイジャンの統治権)を抱えていたイル・ハン国とキプチャク・ハンは、それぞれの宗教に対応する同盟関係を模索した。

すなわち、イスラム教を信奉する東欧のキプチャクハン国は、同じイスラム国家であるエジプトのマムルーク朝と同盟関係を結び、ロシアとエジプトからイランのキリスト教国イル・ハン朝を挟撃する態勢をとった。

これに応じて、イルハン国もヨーロッパ諸国へ使節を派遣し、後ろ盾を得ようとした。

また中央アジアでも、チャガタイハン国のリーダー・ハイドゥが元の宗主権に意義を唱え、東欧のキプチャクハン国も味方したため、帝国を二分する争いに発展しつつあった。

そこで、中国のフビライ・ハンは、中央アジア~東欧の敵対勢力を包囲すべく、唯一同盟を維持していた中東のキリスト教国・イルハン国との連携強化に加え、西欧の支持を得ることで包囲網を敷こうとした。


そのため、フビライは、最低でも3回の使節をヨーロッパへ派遣している。

「東方見聞録」のマルコポーロもフビライの使節としてヨーロッパに派遣された遣使の一人だった。(商人としてやってきた)

結局、ヨーロッパ諸国との同盟は破談に終わった。

しかし実現していた場合、中国、ヨーロッパ、イランのキリスト教連合軍とエジプト、中央アジア、東欧のイスラム軍の対立軸にまとまり、十字軍戦線をユーラシア全域に延長する世界大戦に発展していた可能性も否定できない。

このような外交的視野の拡大も、ユーラシアをつなげたモンゴル帝国以前の時代にはありえなかったことだと思う。


やはりモンゴル帝国は、アメリカ手国の先駆け

モンゴル統治の特徴を挙げると次のようになる。

・拡大主義
・宗教・民族を超えた共通利害を軸に結びつく外交方針
・強大な軍事力を背景とした警察機能
・福祉による貧困の削減
・自由貿易の推進
・信用制度

これらは今日の覇権大国であるアメリカ、またそれに代わろうと画策する中国の政策と遜色ない。

史上初の試みゆえに、その覇権は短命に終わった。
しかし、今日の覇権大国に近い帝国運営を、13世紀の時点で閃いたパイオニアとしてのモンゴル帝国には敬服せずにはいられない。

さらに、モンゴル帝国のネットワークなくして、火器をはじめとする技術はヨーロッパへ伝わらなかった。
モンゴルの伝えた火器なくして、大航海時代も、オスマン帝国の拡大も、日本戦国時代も成り立たなかったのだから、「世界を繋げた」彼らの功績は今日のインターネット革命に匹敵すると思うのである。